<ホンダ、ロードレース選手権最高峰クラス初参戦から50周年を迎える>
ホンダが2016年FIMロードレース選手権MotoGクラス参戦で、最高峰クラス初参戦から50周年を迎える。初参戦の1966年から実に半世紀もの時間が経過したことになる。不参加であった1968年から1978年を除き、この期間最も過酷なカテゴリーで戦い続けてきた経験は、ホンダのエンジニアたちにとって2輪車デザインと開発のあらゆる局面で成長することとなった最高のステージであった。
世界のトップクラスで戦い続けてきたホンダ。2016年第14戦終了時点で、500ccとMotoGPクラスで277勝、ライダーズタイトル、コンストラクターズタイトルを38回獲得するなど、数々の勝利を挙げてきた。
ホンダが当時の最高峰である500ccクラスに初参戦した1966年は、世界選手権デビューとなった1959年のマン島TTレース125ccクラスの7年後。以降、開発と勝利を重ね、2015年にはロードレース世界選手権のMotoGP/500cc、350cc、250cc、125cc、50ccクラス合計で、前人未到の通算700勝を達成した。また、1966年以降、31人のライダーが500cc/MotoGPクラスでホンダマシンを駆り優勝を収めているほか、最高峰クラスでの、1シーズン最多優勝の記録も保持している(1997年・2003年で15勝、2002年、2014年で14勝、1996年・1998年・2011年で13勝)。
<RC181:ホンダ初の最高峰クラス優勝の舞台裏>
今から50年前の1966年5月、ホンダはロードレース世界選手権の最高峰クラスに初参戦した。当時のほかのクラスに参戦していたRC166(250cc、6気筒)やRC149(125cc、5気筒)に比べると、RC181はシンプルと言えるマシンだった。ホンダが得意とする前傾レイアウトの並列4気筒、ギア駆動のカムに制御されたシリンダーあたり4バルブのエンジンを搭載し、ジム・レッドマンが乗った初期型でも、85馬力、最高回転数12,500rpm、時速170kmに迫るトップスピードを誇った。
ホンダの最高峰クラスでの勝利の歴史は1966年5月22日、レッドマンがジャスモ・アゴスチーニ(イタリア、MVアグスタ50cc)を制したホッケンハイムのサーキットから始まる。MVアグスタはこれに対抗し続くオランダGPでボアを拡張した軽量350トリプルを投入したが、レッドマンが再びトップでチェッカーを受けた。レッドマンがホンダの500ccクラス優勝の夢を実現するかに思われた一週間後、スパ・フランコルシャンサーキットで開催された雨天のベルギーGPで転倒。大けがを負ったレッドマンは「まるで湖でした。時速250kmのスピードでマシンがスリップしました」と語り、のちに引退を表明した。
レッドマンの引退を受け、ホンダはすでに250cc、350ccに参戦していたマイク・ヘイルウッドに頼ることとなった。アッセンではトップを走行中に転倒、続くスパではギアボックスのトラブルで優勝を逃す。ブルノではアゴスチーニに完勝したものの、続くフィンランドではコースを外れ、惜しくも2位フィニッシュ。その後、アルスターGP、マン島TTと連勝。第4戦からの参戦にもかかわらず、タイトル獲得を射程圏内におさめていた。迎えた最終戦。ヘイルウッドはアゴスチーニとリードを争ったが、エキゾーストバルブの故障により、残念ながらリタイア。タイトルを逃す。
ホンダとMVアグスタのライバル意識はピークを迎えていたが、お互いに対する敬意は友情に近いものと言えた。秋鹿方彦監督は当時の状況をこう語っている。「たまにプレゼント交換をしましたよ。MVアグスタからはイタリアンワインをいただいて、お返しに海苔を送りました」
ヘイルウッドは最高峰クラスで惜しくもライダーズタイトルを逃したが、1966年はホンダにとって驚異的な結果を残すシーズンとなった。500cc、350cc、250cc、125cc、50ccの全クラスでコンストラクターズタイトルを奪取。また、ヘイルウッドも350cc、250ccでライダーズタイトルを獲得し、ルイージ・タベリが125ccを制覇した。
「我々にとって、チームスタッフが少なかったにもかかわらず、黄金時代となりました」と秋鹿監督は振り返る。「マン島TTではエンジンデザインだ-。シャーシデザイナー、メカニックを含めスタッフは12名で、ドライバーやヘルパーはいませんでした。すべて自分たちで30台のマシン(1クラスにつき6台)を管理しました」
このシーズン、ロードレース選手権の全クラス参戦に加え、F1にも参戦していたホンダは、1967年シーズン開始前に125ccと50ccクラスからの撤退を表明した。ホンダが初めてF1に参戦したのは1964年、初優勝は1965年であった。1967年シーズンは、本格的にタイトルをねらうため、元ロードレースチャンピオンのジョン・サーティースを起用。3LのV12エンジンを積んだF1で挑むこととなる。ロードレースの1967年シーズン初頭は秋鹿監督を含む数少ないスタッフと、500cc、350cc、250ccの3クラスを一人で戦うヘイルウッドのみというチーム編成だった。
第2期のRC181は、排気量10ccアップの499ccで、よりパワフルになった。しかし第1戦のホッケンハイム。アゴスチーニをリードしていたヘイルウッドのRC181のクランクが破損。あえなくリタイアとなった。その翌月、ヘイルウッドはアゴスチーニに対し、マン島TTで歴史的な勝利を挙げ、数年間破られることのなかったラップ新記録を打ち立てる。その後、アゴスチーニの反撃が始まった。スパとザクセンリンクで優勝。一方のヘイルウッドもブルノにおいて17秒差で快勝する。ヘイルウッドはイマトラでクラッシュしたものの、モンツァではギアボックスのトラブルでペースダウンするまでリードを保ち、シーズン最終戦となるカナダでは優勝したが、アゴスチーニのポイントには追いつけず、総合2位に終わった。
1968年2月、ホンダはすべてのロードレース活動からの撤退を表明した。CB750Fourなど将来性のある市販バイクの開発、F1活動、4輪事業に集中することとなった。ホンダの年間2輪生産台数が初めて150万台に達した1969年に発表されたCB750は、世界初のスーパーバイクといえるだろう。
<最高峰クラス初参戦マシン『RC181』と現行参戦マシン『RC213V』>
ホンダのロードレース選手権最高峰クラス参戦50周年を記念して、最高峰クラス初参戦マシン『RC181』と現行参戦マシン『RC213V』の撮影が実施された。この撮影は10月14日(金)から16日(日)までMotoGP日本GPが開催されているツインリンクもてぎで行なわれ、ワークスチームRepsol Honda Team』に所属するマルク・マルケス、ダニ・ペドロサ両選手も参加。現在のトップライダーと、50年前のチャンピオンマシンが顔を合わせる、貴重な機会となった。